内田麟太郎さんは詩人、童話作家として有名ですが、たくさんの絵本も出版されています。
長新太さんの絵による「さかさまライオン」、荒井良二さんの絵による「うそつきのつき」をはじめ、降矢 ななさんの絵による「ともだちや」シリーズは大人気です。

数多くの絵本を出版されている内田さんですが、どのような人生を歩んで、絵詞作家になられたのでしょう。

≪寂しかった幼少時代≫

内田さんは1941年、福岡県の大牟田市に、看板屋であり詩人でもある、内田博の長男として生まれました。
6歳の時に、母親が亡くなり、父親はその翌年、4歳と2歳の子を連れた女性と再婚します。

その後、2人の弟が生まれましたが、内田さんは、継母に毎日冷たく扱われ、辛く寂しい日々を送りました。

≪詩や絵に目覚めた学生時代≫

内田さんは絵が苦手でしたが、中学生のときに、内田先生の助言をもとに描いた絵が、教室の後ろに張り出されたのです。
このことがきっかけとなり、内田さんは絵が大好きな中学生に変身します。

高校生になると、美術部員になり、そこで出会った先生も、のびのびとさせてくれて、内田さんは、才能を伸ばすことができました。

高校時代には小遣いで、『現代詩の鑑賞』『日本文学全集(詩)』などの詩の本や、ゴッホ、クレー、ミロ、尾形光琳などの画集を購入して、繰り返し読んでいました。

絵と詩に夢中な高校時代でした。

≪映画に入り浸りの日々≫

家庭での寂しさから、家出や万引きを繰り返していた内田さんでしたが、高校を卒業してから上京までの1年間が1番すさんだ時期でした。
毎日、映画館に入り浸り、帰ると睡眠薬を飲んで眠る日々が続きました。

内田さんは、このときの映画浸りが絵本作りに役立っているといいます。
絵本テキストはカレンダーの裏にコマ割りして、具体的な絵柄を想像して書くという内田さん。
その時には、映画の監督やカメラマンになりきります。

≪上京して看板職人に≫

19歳のある日、継母を殴り倒した内田さんは、東京に出る決意をします。誰の見送りもない寂しい旅立ちでした。
上京すると、同郷の看板職人をしていた友達を頼り、中野区で看板見習いになりました。

看板見習いをしながらも、絵か詩のどちらかをやっていきたいという思いを強くした内田さんでしたが、月に2回しか休みがなく、美術大学の通信教育すら受けることはできませんでした。

そんなとき、父親からのアドバイスで、内田さんは自作の詩をもって、ロレタリア詩人の遠地輝武を訪ねたのです。
そこで、内田さんは、遠地さんから人間の哀しさと温もり、そして書き続けることを教えてもらいました。

≪ケガがきっかけで入った絵本の世界≫

看板の仕事をしながら、同人誌に詩を投稿していた内田さんですが、37歳のとき、二日酔いではしごから落ちて、2か月間入院という大怪我をしてしまいます。
退院しても看板工には戻れないと思った内田さんは、このとき「こどもの本を書いて、飯を食っていこう」と思い、その世界に足を踏み入れました。

なんと選んだのは“ナンセンス”

出版社に送っても戻されていたときに、福音館の月刊誌に「子どもの館」への作品募集広告を見つけ、童話「たべちゃった」を投稿しました。そこに、長新太さんの絵で掲載されたのです。

その「子どもの館」が廃刊になって落ち込んでいたときに、光村図書の季刊『飛ぶ教室』の広告が目に入った内田さんは「さかさまライオン」を送ります。

発表は該当者なしでしたが、編集の今江 祥智さんに「1番面白かった。応募規定の7枚に縮める前のものを読んでみたい」と言ってもらえ、内田さんは自信をつけます。

次に、「さかさまライオン」(25枚)を童心社に送りましたが、うちには不向きだからと採用されませんでした。けれど、編集者が偕成社を紹介してくれ、結果、そこで絵本になったのです。

売れるためには既に売れている人と組まなくてはならないという出版社の意向で、長新太さんの絵に決まりました。
長さんに「絵本には絵本の文章があります」と言われてから、内田さんは「絵本の文章とは何か」を考え続け、「絵本の文章は、文学であってはならない」という結論を得、絵詞作家を名乗ることにしました。

長さんには「内田さんは詩人だから、絵本も詩のように書くといいでしょう」というアドバイスももらいました。
その後3度目の経済的危機が訪れますが、このとき救ってくれたのが「ともだちや」でした。

≪危機をチャンスに≫

内田さんはいろいろな試練を、積極的に生きることで乗り越えてきました。前向きにアンテナを張りながら生きていると、いろいろなチャンスに巡り合い、成功に導いてくれることを内田さんは教えてくれます。

参考:「絵本があってよかったな」(内田麟太郎)
文:山庭さくら