絵本作家になるきっかけ ~レオ・レオーニの場合〜

教科書にも載った『スイミー』や『あおくんときいろちゃん』『フレデリック』など、世界中で愛されている作品を生み出したレオ・レオーニ。
彼はどのようにして絵本作家になったのでしょう。

日常の生活の中にあった美術

レオ・レオーニは、ダイヤモンドカッターだった父と、オペラ歌手だった母の、ひとり息子として、アムステルダムに生まれました。
コレクターの叔父の影響で、家には、パブロ・ピカソやパウル・クレー、シャガールなどの芸術品がありました。また、市長からの特別な許可で、自宅から歩いて行ける距離にあったオランダ王立美術館の石膏の部屋でデッサンすることができるなど、芸術に囲まれた生活をしていたのです。

両親の仕事の関係で、ヨーロッパやアメリカを転々としたレオでしたが、美術学校などで、美術の専門教育は受けたことがありませんでした。レオにとっての美術は、家の中に飾ってあるピカソやシャガールの絵であり、叔父から教えてもらう鉛筆画など、日頃の生活の中にあるものだったのです。

仕事を転々とした日々

スイスのチューリッヒ大学経済学部に進学したものの、経済学に興味が持てず、ジェノバに戻ったレオは、21歳で、18歳のノーラと結婚し、翌年には息子が生まれます。最初はジェノバの会社で会計係の助手として働きましたが、数か月しか続きませんでした。オランダでは文房具のセールスマンになりましたが、これもすぐに嫌になりました。

ミラノに戻ったレオは、批評家であり、デザイナーであるエドアルド・ペルシコと出会います。ペルシコはレオに初めてデザインというものを教えてくれた人でもありました。
ペルシコは『カーザベッラ』という建築雑誌の編集にかかわっていたので、レオはその雑誌に初めてオランダの新しい建築についての署名記事を書いたのです。

25歳の時には、イタリアの大手製菓会社で、本格的なデザインの仕事をすることになり、キャラクターを作ったり、ウインドウ・ディスプレイを手掛けたりしました。

デザイナーとして活躍したニューヨーク

デザインの世界で生きていくことを決意したレオは、ミラノに個人事務所を構えました。しかし、人種差別法が公布され、ユダヤ系であったレオは身の安全のために、アメリカに渡ったのです。ニューヨークでは、いくつかの新聞社で美術担当編集者の仕事をしたり、グラフィックデザイナーとして働きながら、各都市での巡回展も開いたりしました。

1945年に、レオはアメリカ国籍を取得し、アスペン国際デザイン会議の初代会長を勤めました。この頃、レオがエリック・カールの才能を見出したことは有名です。彼に、ニューヨーク・タイムズ広報部への就職を世話しただけでなく、編集者を送り絵本の仕事も勧めたのです。

『あおくんときいろちゃん』での絵本作家デビュー

『あおくんときいろちゃん』は、電車の中で、偶然に生まれたお話です。
騒がしい孫たちを静かにさせるため、偶然もっていた『ライフ』誌の校正刷りの表紙を見せ、孫の気を引くことを言っていたカールでしたが、青、黄色、緑でデザインされたページを開いたときに、あることが浮かんだのです。

青のページ、黄色のページ、緑のページ、それぞれで丁寧に丸く切り取ると、膝の上に置いたブリーフケースの上にそれを置き、お話を始めたのです。孫たちはそのお話に引き込まれていきましたが、なんと周りの大人たちまで、同じく引き込まれていったのでした。

帰宅したカールは、孫たちと一緒にそのお話をダミー本にしました。翌日、子どもの本の編集者になったばかりの友人が、たまたま食事に来て、その本を見せたことから出版されることになり、1959年、レオは『『あおくんときいろちゃん』での絵本作家デビューを果たしたのです。

1962年、再びイタリアに戻ったレオは、自身の本のイラストレーターや、彫刻の活動を始め、およそ40冊の絵本も発表しました。レオは、自然に囲まれた広大な土地に家を構え、春から秋までは、ポルチニアートの家で過ごし、冬から春までは、セントラルパークが見下ろせるニューヨークのアパートメントで過ごすという生活を毎年続けました。

絵本『スイミー』で初めて意識した読者のこと

『スイミー』は、レオの4冊目の絵本です。レオはこの時、初めて読者を意識したといいます。それと同時に、自分の子ども時代の思い出を分析し、それと向かい合うようになっていったのです。

『スイミー』の中で最も大切なフレーズは「ぼくが目になろう」という1文です。スイミーはほかの仲間と色が違います。自分が他のものと異なっていることを認め、自分にしかできない役割をもつということをスイミーが自覚したのがこのセリフだったのです。

レオは人にはそれぞれ、個性というものがあり、役割もそれぞれ違うということを、この絵本で伝えています。

絵本作家に向けての言葉

“子どもの絵本の作者には、ほかの人のために世界を「見る」義務があります。絵本作家には、そういう能力が備わっているからこそ、美しさとものごとの意味を人々のために明らかにするという使命を持っているのです。”

“子どもたちのために書くためには、子どもにならなければならない、とよく言いますが、わたしにはそれはちょっと安易な感じがします。しかし、その反対は真実です。つまり、子どもたちのために書くためには、少し距離をおいて、大人の視点で物事を見なければならないのです。”

文:山庭さくら

※ 参考:レオ・レオーニ 希望の絵本を作る人 松岡希代子 著 美術出版社